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HOME > 維新史跡めぐり > 維新史跡めぐり忌宮神社
(1)移築保存の集童場々長室
●木造平屋建1棟6畳(床・押入れ・廊下)の建物が集童場々長室の遺構である。藩校敬業館が藩士の子弟を教育する場であるのに対して、集童場は武士・町人などの身分の別なく時勢の求める人材を育てようという教育機関。
文久2年(1862)に福田扇馬が自宅を開放して設けた私塾桜柳亭を母体に、元治元年(1864)3月、熊野則之(直介)と福田が中心となって古江小路に設立。のち裏侍町に移転。教育の理念は楠公、即ち楠木正成の精神であり、また文武両道の強調と実践の重視など、松陰の実学的精神にも通じる。長府藩士による同志の盟約が行われるや集童場の少年16人も盟約血判し、時代に殉じる心根を示す。乃木希典・桂弥一・滝川弁三らが机を並べて学ぶ。明治2年(1869)藩校敬業館に併合廃止されるまでの間120~130人近い子弟を教育している。
(2)北越に散った熊野則之(直介)
●集童場の創設者であり、場長も勤めた熊野則之の記念碑(高さ7m)が集童場々長室の前に建てられている(明治20年5月)。題字は山県有朋の揮亳。弘化4年(1847)、長府藩士熊野家に生まれ、敬業館に学ぶ。集童場を創設、報国隊結成には参謀として参画。小倉戦争には報国隊軍監として奇兵隊と共に戦い、明治元年(1868)戊辰の役には報国隊を率いて北越に転戦。長岡城攻略に功をあげるが、今町の激戦で苦戦する奇兵隊を助けに駆けつけ敵弾に倒れる。時に22歳。従五位。