テキストサイズ 小 |中 |大 |
HOME > 維新史跡めぐり > 維新史跡めぐり功山寺
(1)功山寺の 歴史的事跡と国宝
●嘉暦2年(1327)、伊勢の人虚庵玄寂禅師を開山として創建。臨済宗で山号を金山、寺号を長福寺と称し、通称谷の長福寺と呼んだ。
●元弘2年(1333)に後醍醐天皇が綸旨(りんじ)を賜う。延元元年(1336)4月、
足利尊氏加護を祈って小月村を寄進。弘治2年(1556)4月4日、大内義長自刃。永禄12年(1569)毛利元就、九州大友氏との戦いに本陣を置く。
●国宝指定(昭和28年11月14日)の唐様建築・功山寺仏殿は、内陣柱の墨書から元応2年(1320)の創建とみられている。
●この建築の特色は、粽(ちまき)柱、一重裳階(もこし)付き屋根の扇 (おうぎたるき)、入母屋造、花頭窓(かとうまど)、内部は海老虹梁(えびこうりょう)、床は四半瓦敷(しはんかわらじき)、鏡天井などで、わが国最古の禅寺様式。
●慶長7年(1602)、毛利秀元が入府後修営し、安芸国廿日市の洞雲寺開山金岡禅師を請じて中興の開山として曹洞宗に改宗、毛利氏の菩提所とする。慶安3年(1650)秀元の死後、その霊位を安置し、法号智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称する。以後5代元矩(もとのり)、9代匡満(まさみつ)、10代匡芳(まさよし)、11代元義(もとよし)、12代元運(げんうん)、14代元敏(もととし)の各藩主が葬られる。
(2)功山寺に五卿潜居
●元治元年(1864)11月16日、三条実美ら五卿が湯田の地から逃れて寺に入り潜居。翌慶応元年(1865)1月14日九州太宰府へと渡る。●尾崎三良「尾崎三良自叙略伝」中公文庫参照。潜居の五卿●三条実美(さんじょう さねとみ)●三条西季知(さんじょうにし すえとも)●東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)
(3)高杉晋作の功山寺決起
●元治元年11月2日/筑前へ亡命
●11月10日/野村望東尼の平尾山荘へ
●11月21日/山荘を出立
●11月25日/下関に帰って来る
●12月15日夜、高杉晋作、五卿に決意を述べた後、わずか80人足らずで藩論統一のための挙兵をする。(功山寺決起・回天義挙)伊藤俊輔(博文)、石川小五郎、高橋熊太郎、所郁太郎、佐世八十郎(前原一誠)らこれに従う。(「一里進めば一里の忠、二里進めば二里の義」・「悪名を天下に蒙むると雖も、毛利のため隠れたる忠士たらんとす」)
●大正9年(1920)12月24日、総門前に「高杉晋作回天義挙之所」碑建立。題字は横山健堂。
(4)桂弥一の遺産(尊攘堂・万骨塔)
昭和8年(1933)10月20日、桂弥一が尊攘堂(現、下関市立長府博物館)と全国からゆかりの石を集めて万骨塔を建立。その正面に長府藩報国隊の霊石を据え、その真裏に会津白虎隊士の霊石を配している点に注目する必要があろう。
(5)功山寺墓地に眠る維新史の人々
●三吉慎蔵墓
天保2年(1831)~明治34年(1901)。長府藩士小坂家に生まれ、三吉十郎の養子となる。集童場・明倫館に学び、また江川太郎左衛門より西洋銃術も学ぶ。宝蔵院流槍術の免許皆伝。慶応2年(1866)正月、京都探索のため、坂本龍馬とともに上洛。1月24日夜、伏見寺田屋で襲われ、龍馬を助けて戦う。小倉戦争では報国隊五番大隊軍監として従軍。維新後は藩の権大参事、長府毛利家の家扶、北白川宮家の家令などを勤める。従六位。享年71歳。
●豊永長吉(印藤聿)墓
天保2年(1831)~明治44年(1911)。長府藩士下村家に生まれ、印藤吉右衛門の養子となる。敬業館に学ぶ。坂本龍馬・真木菊四郎らと往来。馬関攘夷戦には砲隊司令として活躍。三条卿ら五卿の潜居中は接待役を勤める。報国隊結成にも参画。内訌戦には藩論統一に尽力。慶応2年、豊東郡代官となり、開作事業に貢献。その後、会計督務として藩政最後の財務を管掌。明治となり、豊永長吉と改名。宇部村沖開作で製塩業を振興。山口県会議員に選出。下関米商会所を設立して頭取に就任。実業界で活躍。明治36年に衆議院議員に当選し、中央政界にも進出。享年81歳。墓碑に山県有朋の歌「逢ふことに国とまさんといひしことなおまのあたりきくここちする」
●品川氏章墓
弘化2年(1845)~明治22年(1889)。長府藩士清水家に生まれ、品川省吾の養子となる。報国隊結成に参画し、のちに軍監となる。小倉戦争にも参戦。慶応3年(1867)10月、藩主元周の密命を受けて上洛、国事に尽力。同年12月、倒幕の密勅が長州・薩摩に下されると、ただちにこれを拝帶して帰藩。北越戦争にも報国隊軍監として転戦。藩権大参事、のち大属となる。明治4年の廃藩置県後、特に選ばれて、兵部省出仕。要職を歴任し、陸軍少将に累進。明治19年3月、歩兵第10旅団長に任じられる