●弘治3年(1557)
大内氏に代わって防長二州を掌中とした毛利元就は、串崎城に拠っていた内藤隆春(父の代まで大内氏の宿老)を長府在番に命じる。
●慶長7年(1602) 関ヶ原の戦に敗れて防長二州に削封された毛利氏は、長府を中心とした豊浦郡3万6千石(のち公称5万石)を毛利秀元に分知し長府藩が成立。秀元は串崎城を修築して城を雄山(かつやま)城と称し本拠とする。
(お城山、詰の丸の地名が残る)
●元和元年(1615) 幕府による一国一城の令により、山口の高嶺城、岩国の横山城とともに破却。麓の平地に居館を構える。(現、豊浦高校校地)
●幕 末 城山にも外夷に備えて砲台が築かれ、その最も東寄りの位置から、九州国東半島方面から海峡に入って来る外国船を一番早く発見し、号砲を放って来襲を知らせる役割を果たす。
●元治元年(1864) 城山の砲台には真鍮砲3門と木砲4門が配備されており、四国連合艦隊との休戦協定が結ばれた翌日の8月9日、戦利品として持ち去られる。
※「和親規約の条件は七、八ヶ条である。其ノ条中の一に総て台場の備砲は撤去し彼に引渡すとなっている。某日英人が外浦に来て、此処に備えてあった大砲を渡せと申込んだ。其所の守備隊長であった某が(熊谷光太郎様とも聞いた)此処より発砲を為したことはない。何も出す砲はないと言うと英人が、否発砲を認めたから頂戴せねばならぬと論談が八ケ間敷かった。井上聞多様が通訳で、其様な屁理屈を言わずと遣って仕まへと、小言を言われた。隊長大に激し抗論して頑張った。傍に居られた伊藤俊輔様が温顔(おんがん)にて、君が言うのは能く分った、もっとも千万だ。けれど今日の場合仕方がないから腹が立つけど耐えて、何でも宜しいから出して遣って呉れよと言れた。隊長は其雅量(がりょう)に服し山砲を差出し次に是もあると言うて木砲を出した。英人は苦笑しつつ木砲を土手下に蹴落し山砲一門のみを持ち去った。」(野竹散人「豊の浦浪」より。野竹は長府藩士林錬作)
●アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」参照