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HOME > 維新史跡めぐり > 維新史跡めぐり旧野々村家表門
(1)文化財保護のため侍町に移築
●かつて長府南ノ浜町(古串屋東隣)にあった、130石馬廻格野々村家の表門で、昭和54年12月7日市文化財に指定。のち保存のため侍町に移築。
(2)下関市指定有形文化財(建造物)
●この門は、毛利居館(現豊浦高校)から移築したものといわれ、切妻屋根左右の鬼瓦には毛利家家紋の一文字三星がみられる。形式は、主柱に扁平な角柱、背後(内側)に角の椌柱(ひかえばしら)を立てた薬医門で、屋根は棧瓦茸。
●長府に残る薬医門としては規格も大きく、また、扉が両開きでなく、半分が下見壁で引込戸になっているのは、天保14年(1843)制定の「御家中家作之定」によるもの。
(3)幕末期の当主、野々村勘九郎
●長府藩士萩野家に生まれ、野々村家の養子となった幕末期の当主野々村勘九郎は、藩内きっての剣客として知られる存在であったが、直情型で、他藩の士を切ったことから問題となり、藩主の配慮で泉十郎と改名。維新時に結成された長府藩報国隊の都督として、また三条実美ら西下潜伏の際にはその接待として活躍するが、高杉晋作による長州藩内訌戦(ないこうせん)が収まった後の慶応元年(1865)報国隊士梶山鼎介ら3名が保守派の一人林郡平を暗殺するといった事件などもあって藩内抗争に巻き込まれ、同年11月29日、汚名をきせられて切腹させられる(賜死事件)。彼もまた変革の時代の犠牲者である。
●その賜死事件については、捕方が野々村家をとり囲み、妊娠中の妻が塀越しに隣家に逃げ込んだとか、高杉晋作がその死を惜しんで、処刑を止めるべく駆けつけたが間に合わなかったとか、様々な話が語られ
ている。