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長府藩報国隊
盟約状
「当今之御時勢を考るに御国重大の事に拘り候に付、此度諸同志を会し死を以堅く誓約致置候間各正心直行上天朝を敬し次に御国を思ひ御奉公之道相尽し候様可相守者也。若有変心者割腹は武士之常敢て為を得さる者は立処に可為斬捨事」
●慶応元年(1865)1月16日、盟約の仲間が神前に集い、隊団結成のことを決し、同18日幕府に対して上申書を提出する。
●集童場に学ぶ少年たちも、いざ事あるときは行動を共にしたいと盟約を結び、署名血判。その筆頭に署名血判したのが、乃木無人源頼時、のちの乃木希典大将であった。
●同年2月14日、隊団の組織を許し、結成の裁可が下された。これは、藩機構に直結する隊団であり、司令指揮に当る者は「総て門閥世臣」で、「兵卒は士民を問わず其子弟強幹なる者」となっている。
●隊名は“決死報国”の意を込めて「報国隊」と名付けられ、都督に野々村勘九郎(のちの泉十郎)、軍監兼大伍長に福原往弥(和勝)など、参謀に印藤聿(いんどうのぶる)(のちの豊永長吉)、熊野則之(直介)、大庭伝七などが任命される。
●当初の任務は「赤間関を扼(やく)させる」ということで、調練を続けながら赤間関の警備に専念。小倉戦争においては、高杉晋作指揮のもと奇兵隊とともに総力をあげて(約400人)戦い、北越戦にも長州軍の主力として405人の隊員が出陣。450日余にわたって激戦地を転戦、隊長熊野直介をはじめ多くの犠牲者を出している。