土佐藩出身の志士。中岡慎太郎と共に、薩長連合を仲介した人物として有名。長州にはよく足を運んでおり、慶応元年 10月、晋作は龍馬と下関で会っている。上海から買ってきたピストルを龍馬に贈ったのはその時であろう。第二次長州征伐の小倉戦争が始まると、小倉戦爭が始まると、長州藩のために買入れた軍艦を下関に回航し、小倉攻撃に参戦した。晋作の死から7ヶ月後の慶応3年11月、京都で暗殺される。33 歳。


萩藩士。安政 4 年藩校明倫館に入学。 19 歳のとき吉田松陰の松下村塾に入門、英才を発輝。文久 2 年 5 月藩命により上海へ渡航。その世界的意義を認識。同年 11 月英国公使館の焼打ちを敢行。 6 月藩命により奇兵隊を組織して総監となる。時に 25 歳。元治元年四国連合艦隊の下関砲撃事件が勃発、講和条約の正使として条約を締結。奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵、藩論を討幕に統一。慶応 2 年には薩長同盟を結び、反幕府の態勢を固めた年 6 月の第二次長州征伐には、海軍総督として幕府と開戦、小倉方面の戦闘を指揮。翌年 4 月討幕を見ず下関で病死。 29 歳。


(侠平)萩の人。文久3年奇兵隊書記、のち参謀、軍監となる。晋作の指揮下に小倉の幕軍と戦う。戊辰戦争では伏見など転戦。功山寺決起のときには、晋作の馬前に座り込んで引き留めようとした。晋作を尊敬し、自分の墓は晋作の墓の隣に建てるように遺言した。奇兵隊の手で実現。明治元年11月死去。40歳。
天保2年10月11日長府藩士次男として生まれ、後三吉十蔵の養子に迎えられた。文武両道に秀で、文久3年8月には長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の監督となる。慶応2年正月、坂本龍馬と初めて対面、薩長同盟締結直後の同月24日夜、潜伏中の寺田屋で龍馬とともに遭難す。龍馬暗殺の悲報を龍馬の妻お龍へ伝えたのは、慎蔵と言われている。明治34年2月16日病死。 71 歳。

(聞多)萩藩士。伊藤俊輔や晋作と親交があり、英国公使館焼き討ちにも加わる。伊藤と共にロンドン留学。帰国後、晋作に協力して攘夷戦後の処理に奔走。幕府への強硬論を展開、元治元年9月俗論派に襲われ、重傷を負うが、晋作らと藩の倒幕路線を固めた。大蔵大臣を歴任、後実業界に入る。大正4年9月死去、81歳。



下関の勤王商人。問屋を営みながら、多くの志士と交友、面倒をみた。奇兵隊結成の時、晋作は財政的な援助を得た。正一郎ものち、会計方として奇兵隊に入隊、晋作を支える。新政府発足後功労者として出仕することもなく、赤間神宮宮司として晩年を過ごす。貴重な維新資料「白石正一郎日記」を遺す。明治13年死去。69歳。
松陰の肖像画は安政 6 年、江戸召喚直前、野山獄内で門弟の松浦松洞が描いた。松陰はペリーの軍艦で密航を企てて失敗、伝馬町牢から萩に送り返され、やがて松下村塾を始める。晋作は 19 歳の安政 4 年松陰の門下生となる。松陰が再び江戸に召喚され処刑されたのは、 2 年後の安政 6 年のこと。 30 歳。短い期間だったが、松下村塾は、高杉晋作をはじめ多くの英傑を輩出、維新への流れを加速させた。
(利助、俊輔)中間の身分だが文久 3 年士籍に列す。松下村塾出身、晋作と共に志士として活躍。英国公使館焼き討ちにも共に参加した。文久 3 年、井上聞多らとロンドンへ留学。四カ国連合艦隊襲撃を知って翌年帰国、晋作の講和談判に通訳として随行、功山寺決起には力士隊を連れて参加など、終始晋作と行動を共にした。初代内閣総理大臣。明治 42 年 10 月満州ハルピンで暗殺さる。 69 歳。
(桂小五郎)松陰の軍学門下で、晋作をはじめとする村塾グループの指導的立場にあった。剣の達人といわれながら、過激な行動を避け、もっぱら政治工作に動き、薩長同盟を結ぶなど、討幕運動の重要な役割を果たした。のち西郷、大久保と並んで、維新の三傑と称されるようになった。ときおり脱線する晋作を陰で支えた一人である。明治 10 年 5 月死去。 45 歳。
松下村塾出身。晋作が80人足らずの者を率いて長府・功山寺に決起したとき、勇躍これに参加した。晋作が病気で倒れたあと、四境戦争九州口の戦いでは参謀となって引き継ぎ、勝利した。明治2年、兵部大輔に任じられたが、木戸と意見が合わず退官、帰国。明治9年、萩の乱の首謀者として処刑された。43歳。
藩医の家系に生まれ、のち士籍に列した。松下村塾では、その明晰さで晋作と並んで双璧とうたわれた。松陰の妹と結婚、志士として京都、江戸で活躍した。晋作と盟友ではあるが、最後まで頑固な攘夷主義者で文久3年5月、光明寺党を率いて攘夷の第一弾を射ち出す。元治元年7月の京都・禁門の変で討死。25歳の早世。
(小助、狂介)身分は足軽。松下村塾出身。元治元年、四カ国連合艦隊との戦いで奇兵隊軍監として活躍、晋作の功山寺決起直後、奇兵隊を指揮して俗論軍と戦った。のち長州陸軍閥の総帥、内閣総理大臣となる。晋作の死後、愛人おうののために吉田の土地を贈り、東行庵とする。大正11年2月死去。85歳。

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