
(1)船越清蔵の生涯(1805〜1862)
●文化2年(1805)、清水藩の長弓師範の家に生まれる(父三九郎・母とし)。
●藩校育英館で江戸の陽明学者佐藤一斉の教えを受け、尊皇攘夷思想にふれる。豊後の帆立満理・広瀬淡窓に学ぶ。時代の危機感に目覚め、家督を妹に譲り、国事に奔走すべく郷里を出る。
●長崎で西洋医学・蘭学を学び、みたび豊後におもむき、毛利空桑に学び、富国策としての蝦夷地開発が急務であることを認識した。
●江戸に出、天保9年(1838)に北海道を探索。ロシア南下への対応と広い荒地の開発を訴える。
●嘉永6年(1853)のペリー来航以来、国内が騒然とする中、朝廷の中枢、鷹司・三条・中山・岩倉各卿らの知遇を得て、天皇にも御進講に及ぶ。
●安政5年(1858)に萩宗藩も売り敬親に京都守護を要請する密勅の仲介をとる。弾圧に対して自殺をよそおって潜伏し帰国。 |
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●萩で江戸送還直前の吉田松陰と書簡を交わす。その後、萩と郷里を往来しながら、清末の育英館・長府の敬業館・萩の明倫館で講じ、萩宗藩の侍講を務める。
●万延元年(1860)暮と、文久2年(1862)春に京都に潜行し、諸藩の志士と交流。
●文久2年(1862)8月8日、萩から郷里への帰途、赤郷村絵堂(美東町)の宿で急死した。毒殺説あり。
(2)船越清蔵の顕彰
●岡枝小学校校庭に、大正9年(1920)12月、船翁顕彰碑が建立される。
●歌野川ダムへの道筋、子安観音(慈光寺)に至る道に分かれる手前、右手の木立の中に、船越清蔵旧宅跡と刻まれた石碑が建てられている。
●伝記として『清末藩処士・船越清蔵先生』(堀哲三郎著・昭和44年(1969)3月31日、菊川町教育委員会刊)がある。 |