
(1)奇兵隊本陣を吉田に
●慶応元年(1865)4月12日、奇兵隊本陣を吉田諏訪の地に置く。
●萩藩大組士330石、山内梅三郎の給領地。(この年3月に山内が奇兵隊の総督に命じられていた。)
●陣屋は御本陣、器械方、砲隊、1番隊から5番隊まで飯台場、稽古場、講堂など配置。
●下関の街に遊びに出ることは禁止。1日おきに朝食後の2時間、吉田村内に限り外出が許される。
●慶応2年(1866)6月開戦の小倉戦争もここから出陣。翌3年10月14日に倒幕の密勅が下されるや、奇兵隊も京都に向かい、以後、鳥羽伏見の戦い、北越の戦いに転戦し、吉田の陣屋に凱旋して来たのは明治元年(1868)11月であった。
(2)法専寺・常関寺を屯所及び野戦病院に
●浄土宗の寺で玉雲山法専寺(旧街道の分岐点から右手埴生口方面へ)。
小倉戦争の際は野戦病院となる。山門前に享保の大飢饉での死者を供養する「餓死亡魂の碑」(千人塚)がある。境内に奇兵隊士による首切り六地蔵がある。奇兵隊士の墓8基もある。 |
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●曹洞宗の寺で明月山常関寺(旧街道の分岐点から左手久保方面へ)。
小倉戦争の際、野戦病院として重傷者を治療。裏手木立の中に釈迦如来を中心に文殊・普賢の2菩薩と十六羅漢の石仏が座している。これは享保飢饉の餓死者への追善供養として奉納されたものという。奇兵隊士の墓7基もある。
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(3)高杉晋作の墓所と東行庵
●高杉晋作、慶応3年(1867)4月14日、新地の林算九郎邸で27歳と7ヶ月余の生涯を終わる。同月16日の夜、遺体が吉田に運ばれ、神式によって葬られる(白石正一郎がとりしきる)。墓碑銘は「東行墓」のみ。国の史跡に指定。
●伊藤博文の
「動けば雷電の如く、
発すれば風雨の如し」
という撰文の顕彰碑は、明治43年(1910)5月30日に建立される。
●愛人おうのは、得度して谷梅処尼となり、墓守りの道を選び、明治7年(1874)、山県有朋が彼の所有地であった吉田清水山周辺(無隣庵)の地所を贈る。
さらに生き残った同志たちから1,549円の寄付が寄せられ、明治17年(1884)に住家「東行庵」(38.6坪)が建立される。
梅処尼は明治42年(1909)8月7日、68歳の生涯を閉じた。
2代梅仙尼、三代玉仙尼。
●昭和41年(1966)の高杉晋作百年祭(没後百年)の記念事業として東行資料館(延160坪)の建設と庭園整備が行われた。
●昭和48年(1973)4月に聖観音像(愛知県岡崎市鈴木知郎制作)を建立。また、梅林の造成等を行う。
●平成13年(2001)3月18日、高杉晋作歌碑を建立する。 |
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